西郷の局・史談
西郷の局・史談【第一弾】
このページでは、郷土史家である中山正清氏(西郷・滝の谷出身)を中心に、西郷の局(於愛の方)に関する調査研究を発表させていただいています。
「西郷の局・史談」として、寄稿を受け付けております。
西郷局の実像
西郷局は「家康最愛の側室」、苦難の家康を支えた「糟糠の妻」などといわれます。しかし、西郷局の信頼できる史料はわずかで、通説や異説のほとんどが享保期(18世紀前半)以降に記されたものに拠っています。
では、確かな史料からみえてくる西郷局像とはどんなものなのか。西郷局の唯一の同時代史料である、家康の家臣松平家忠が記した『家忠日記』をみてみましょう。
天正17(1589)年5月21日条によると、三河の深溝(愛知県幸田町)にいた家忠のもとに、「駿川若君」(後の秀忠)の母親「西郷殿」が19日に亡くなったという知らせが届きます。家忠は23日に駿府に到着、24日の法要に参列しました。
西郷局関係の記事はこれだけですが、家忠は翌年の家康関東入国で1万石を与えられた有力家臣ですから、他の多くの家臣も法要に参列したと推測できます。西郷局は家中で慕われる存在だったといえるでしょう。
西郷局が側室だった頃の家康は苦難が相次いでいて、そんな時期に西郷局は家康に仕えていました。そして、家康がこれらを乗り越えた頃、局はその生涯を閉じたのです。
浜松時代の家康の側室は西郷局以外にも何人かいましたが、嫡男信康亡き後の跡継ぎに幼い長丸(秀忠)を選んだことから、家康にとって西郷局は特別な存在だったといえます。
もう一つの信頼できる史料は、上西郷村(掛川市上西郷)に伝わった『お国文書』です。西郷局の従姉妹が記したもので、全四通のうち二通を展示しています。ここからは西郷局の名前、父親、氏神等のほか、家康から屋敷を賜ったこともわかる貴重な史料です。
((掛川市二の丸美術館展示・解説文① )
文責 中山正清
〝西郷局伝説〟の形成
西郷局が蓑(服部)氏出身で三河西郷氏の養女になったという話は18世紀前半に現れ、西郷義勝に嫁していたというのも19世紀初め頃に登場する、いわば〝伝説〟です。『家忠日記』『お国文書』『寛永諸家系図伝』『藩翰譜』など18世紀初めまでの史料等に、蓑氏や西郷氏との関係は見られず、戸塚氏出身ということが散見されるだけです。
17世紀後半から18世紀初め、4代将軍家綱の生母の親族増山氏、5代綱吉生母の親族本庄氏が大名に取り立てられ、また、綱吉生母は京の八百屋の娘と噂されるなど、将軍生母への関心が高まっていました。紀州藩から迎えられた8代吉宗の生母も出自不明で、好奇の目が向けられたようです。
そんな中で18世紀前半成立の『柳営婦女伝系』(編著者不明)が蓑笠之助を西郷局の父として登場させました。秀忠誕生前に笠之助がめでたい発句を家康に献上したという『甲陽軍鑑』の記事からの発想でしょう。
『柳営婦女伝系』は西郷局が西郷清貞の養女として家康に仕えたとしていますが、まだ西郷氏の存在は希薄です。それが18世紀末に編纂が始まった系譜集『寛政重修諸家譜』で、西郷氏と西郷局は何重にも関係があると記されるようになったのです。
西郷氏系譜に西郷局の記事を加えたのは、「系図作り」だったと推測できます。当時、大名家等の系譜に詳しい浪人などが、系譜が整っていない家から依頼を受けて作成し、識者等から問題視されることがありました。
将軍生母の生家なら大名でもおかしくないとして、西郷局が西郷氏と関係するとの見方が広まり、西郷氏が「系図作り」に依頼してまとめたのが『寛政重修諸家譜』の西郷氏系譜でしょう。西郷氏は江戸期前半に1万石の大名だった(後に5千石の旗本)ので、『寛政重修諸家譜』編纂官も納得して採用し、通説化したと考えられます。
((掛川市二の丸美術館展示・解説文② )
文責 中山正清
『掛川誌稿』の記す西郷局
『掛川誌稿』は掛川藩が文化3年(1806)頃から編纂に着手し、巻六までをまとめた斎田茂先が同12年に死去、山本忠英が引き継いで文政9年(1826)までにほぼ完成させました。忠英は、茂先編纂個所と見解が異なる場合は「附録」として自らの考えを記しています。
西郷局関係の記述は巻二にありますが、茂先は法泉寺の位牌が西郷斎宮夫妻のもので、西郷局の両親に当たると寺僧等が伝えていると記しています。また、西郷という地名は西郷氏が治めたことに由来するとして、西郷氏は応永(14世紀末~15世紀前半)頃に三河から移ってきたと推測しています。
一方、忠英は西郷局について『以貴小伝』に基づいて記すとともに、三河の西郷氏が江戸時代以前に来住したことはないと断じています。『以貴小伝』をそのまま信じるわけにはいきませんが、茂先の記述も口碑と推測に拠っていて史実とは受け取れません。
斎田茂先のために弁明しておくと、茂先は『寛政重修諸家譜』編纂に関わった林述斎の弟子松崎慊堂の友人で、屋代弘賢の弟子でもありましたから、西郷局の通説を知り得る立場にありました。にもかかわらず、口碑や推測による記述しか残せなかったのは、編纂の途中に42歳で亡くなってしまったからです。もし自らの手で完成させていたなら、通説を盛り込んでいたはずです。
なお、西郷氏系図によると寛政3年(1791)に死去した員総が初めて斎宮を名乗り、その養子や次の当主も斎宮を称しています。通説ができた18世紀末頃に上西郷村で、西郷局の父を西郷斎宮だといい始めたのでしょう。
((掛川市二の丸美術館展示・解説文② )
文責 中山正清
家康と西郷局に関する年表
天正七年 (1579) |
四月 | 西郷局、長丸(後の秀忠)を産む。(※西郷局が側室になった時期を示す確実な史料はない) |
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八月 | 家康、正室築山殿を殺し、嫡男信康を自害させる。 | |
天正八年 (1580) |
この年、数度にわたって高天神城を攻める。 | |
九月 | 西郷局、於次(福松、後の松平忠吉)を産む。 | |
天正九年 (1581) |
三月 | 家康、高天神城を攻略し遠江を完全に平定。 |
十二月 | 於次を東条松平氏の養子とする。 | |
天正十年(1582) | 三月 | 信長・家康、武田氏を滅ぼす。家康、駿河を与えられる。 |
六月 | 本能寺の変で信長死去。 | |
七月 | 家康、甲斐へ進出。翌年にかけて甲斐・信濃を領国とする。 | |
天正十一年(1583) | 一月 | 長丸、家康とともに浜松城で家臣たちの年始の挨拶を受ける。(※長丸を後継者として発表) |
九月 | 下山殿、万千代(後の武田信吉)を産む。 | |
天正十二年(1584) | 三~十二月 | 家康、織田信雄とともに豊臣秀吉と戦う(小牧・長久手の戦い)。 |
天正十四年 (1586) |
五月 | 家康、秀吉の異父妹朝日姫を正室とする。 |
十二月 | 家康、浜松城から駿府城に移る。 | |
天正十七年 (1589) |
二月~翌年一月 | 五ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)総検地。 |
五月 | 西郷局、駿府で死去。 (※西郷局の享年がわかる確実な史料はない) |
|
天正十八年 (1590) |
一月 | 長丸、秀吉に謁見し元服、秀忠と名乗る。 |
二~七月 | 家康、秀吉の小田原北条氏攻めに加わる。 | |
八月 | 家康、秀吉から関東を与えられ江戸城に入る。 |
西郷の局・史談【第二弾】
史料編
【系図】通説による西郷局関係系図
【年表】
寛永二十年(一六二八)『寛永諸家系図伝』完成
延宝八年(一六八〇) 徳川綱吉、将軍就任
貞享元年(一六八四) 幕府、諸大名・旗本に家譜等を提出させる(『貞享書上』)
貞享三年(一六八六) 家康の伝記『武徳大成記』完成
享保元年(一七一六) 徳川吉宗、将軍就任
元文五年(一七四〇) 家康の伝記『武徳編年集成』完成
寛政十一年(一七九九)『貞享書上』を転写した『譜牒余録』完成
文化六年(一八〇九) 『徳川実紀』起稿、天保十四年(一八四三)完成
文化九年(一八一二) 『寛政重修諸家譜』完成
【史料一 『家忠日記』】
(天正十七年五月)
廿一日、丁卯、会下僧衆時にて御こし候、会下へ参候 駿川若君様御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候、野田菅沼助兵衛へ喧嘩にて死去之由申来候、「((頭)幡豆(書、)龍蔵(便宜)院小(移す))笠原彦左衛門所より山もゝこし候、」
廿二日、戊辰、西郷(竹谷)殿御(與次郎)と(同心)ふ(候)らいにあら(見付)い迄こし候、
廿三日、己巳、駿府参着候(藤枝にて)、(初)落付(ふり候)十三郎所ニふる舞候、
廿四日、庚午、りうせんしにて御ちうゐん之御とふらい申候、貮百疋、夕めし本田藤五所へこし候、
【史料二 『寛永諸家系図伝』「戸塚」】
忠家
四郎左衛門 生国遠江西郷。
台徳院殿御母堂の親族たるをもつてめし出され、大権現に謁したてまつり、鈞命をかうふりて忠吉主につかふ。
【史料三 『お国文書』「正保二年奉行所宛上申書」】
乍恐以書付を申上御事
一上西郷村 御阿いこ様御先祖之者
御屋敷守ニ被仰付候間未罷在申候
今様ハ御慈悲之御天下様ニ御座候間
御先祖様御氏神五社大明神様並
弓箭八幡様両宮ハ御阿いこ様之
御氏神ニ而御座候亦曹渓山法泉寺ハ
御いはい所之寺ニ而御座候并上西郷村ハ
高千六百五拾九石四斗貳升之取ニ御座
候惣百姓下々之者迠も我等ニ恨事
候故ニ申上く儀又御触ニ御座候は口上ニ而
委可申上候御事
遠州佐野郡上西郷村
正保二年酉ノ お国(判)
三月廿日
【史料四 『お国文書』「先祖覚」】
先祖覚
一遠州上西郷村戸塚五郎大夫と申者ノ娘
相国様御局へ御奉公ニ出し申候相国様とハ
権現様之御事にて御座候。
一戸塚五郎大夫娘名をハおあい子と申し是を
権現様江と召出其を後御台ニ御直被成候
其時ハおあい子ヲ名をハ西郷と被仰付候其節にハ
遠州浜松之御城ニ被成御召候御事
一其以後西郷へ屋敷被下堀橋被仰付構屋敷とて
今ニ居申候是遠州佐野郡上西郷村にて候。
一西郷局父ハ戸塚五郎大夫即権現様より五百石被(三千石)下候
此五郎大夫ハ西郷屋敷預リまもり候其後五郎大夫
妹請ヶ取御守被仰候又其後ハ娘お国請け取り今も此屋敷守り申候
一戸塚五郎大夫世伜同五百石(三千)取(石)継ぐとて、戸塚四郎左衛門と申候
其子作右衛門鷹師町ニ居申候今又若代ニて候
卯ノ
十二月十六日 お国
【史料五 「故ノ江府ノ令朝散太夫親衛校尉石谷叟行状」】
叟姓ハ藤原氏ハ石谷、諱ハ貞清。其ノ家譜ニ謂出ツトレ自二大織冠鎌足公十二代遠江守為憲一。歴テ二九世ヲ至テ二信濃守行光ニ一仕テ二鎌倉幕府ニ一、以テ統フ二聴務ヲ一。住ス二二階堂ノ辺ニ一。因テ為テ二家号ト一而世ス二其ノ職ヲ一。其ノ七世ノ之孫因幡守行秋養フテ二姉ノ子西郷行晴ヲ一継ガシム二其ノ家ヲ一。西郷ハ者遠州ノ地名ナリ。其ノ十七世ノ孫行清、産ス二於西郷ニ一。乃チ改テ二二階堂ヲ一称ス二西郷氏ト一。生ム二清長ヲ一。其ノ子ヲ曰フ二政清ト一。西郷ノ属邑有リ二石谷村一、政清生ル二于此ニ一。村ニ有リ二八幡ノ神祠一、其ノ傍ニ有リ二九石一。政清敬スルノレ神ヲ余リ、象リ二其ノ石ニ一以テ二九曜ノ星ヲ一為二家紋ト一。登ノ時①今川義元為二駿河ノ国主一兵威圧ス二遠州ヲ一。属シ二政清其ノ麾下ニ一、為ル二西郷十八士長ト一。戸塚氏モ亦其ノ一ナリ。戸塚氏ノ娘奉リレ侍シ二東照大神君ニ一、誕ス二台徳公ヲ一。時ニ号ス二西郷女君ト一。世ニ称ス宝台院是ナリ也。政清憚二避リ之ヲ一改テ称ス二石谷氏ト一。(後略)
【史料六 『寛政重修諸家譜』「石谷」】
政清 十郎右衛門 母は某氏
今川義元をよび氏真につかへ、氏真没落のゝち、永禄十二年正月二十六日その請にまかせられ、遠江国飛鳥内一色名の采地永く相違あるべからざるのむね、東照宮より御黒印を下され、元亀二年三月十日男政信清定とゝもにめされて仕へたてまつり、天正二年四月十五日死す。年七十二。法名道隆。
※永禄十一年(一五六八)十二月 武田信玄、駿府へ入り今川氏真、懸川へ走る。
十二年(一五六九)五月 氏真、懸川城を徳川家康に渡す。
【史料七 『柳営婦女伝系』(西郷局関係個所)】
台徳公御母堂称二西郷局一
○宝台院殿御由緒伝系
(略)
一、笠之助実子嫡男は薩摩守忠吉君へ御附け、服部惣右衛門と号す。其子孫今に尾州に奉仕、次男・三男は早世にて、四男平四郎には、七右衛門に家譲の後隠居料として給る所の百五十俵を譲る、是を二代目の蓑笠之助と号し、当庄次郎は其孫也。蓑笠之助が娘、御傍に奉仕し西郷局と号す、是笠之助妻、西郷家の親類故なりと云々。此女、台徳公・忠吉君の御母堂也、号二宝台院殿一、此御因に付、笠之助が嫡男惣右衛門をば忠吉君に御附也。
(略)
○台徳公御母堂服部氏伝系
服部氏世住二伊賀一
(略)
某 服部平大夫
天正十年壬午六月大神君泉州堺に御座の時、平大夫始大神君へ被二召仕一御由緒を以、明智謀反の由告来、大和路の閑道を御潜行の案内仕る。此時蓑笠を奉る。是より蓑笠之助と召れ、御感賞にて御近習に被二召置一、御治世の後に江戸へ来り、将軍家へ可レ奉レ仕由被二仰付一と云へ共、老年の由御免を乞。依レ之其弟七右衛門に家譲すべき由被二仰付一、隠居料百五拾俵を賜る。
(略)
女 於相
参州西郡の西郷左衛門尉清貞女として、岡崎城へ奉仕して、号二西郷局一。天正七年己卯四月七日将軍秀忠公及下野守忠吉君御兄弟を産す。同十七年己丑五月十九日逝、時廿八歳。同廿四日送二葬之一、号二竜泉院殿松誉貞樹大姉一。是松平主殿助家忠家士稲吉兵衛害レ之と云々。寛永五年戊辰贈従一位、改二号寺於金米山宝台院一、被レ寄二附寺領三百石一。
(略)
〇戸塚氏
忠家 戸塚四郎左衛門
宝台院殿御舎弟たる御由緒を以て、東照宮へ被二召出一、御旗本に列し、所々御出陣供奉し、其後依二鈞命一、武州川越御城番を勤む。
(略)
※『玉輿記』『将軍御外戚伝』も同内容。大名家の蔵書などとして普及した。望月良親「読まれる女性たち―『将軍外戚評判記』と『大名評判記』」(『書物・出版と社会変容 第八巻』所収〈「書物・出版と社会変容」研究会編・刊、二〇一〇年〉)による。
【史料八 『柳営婦女伝系』(桂昌院〈綱吉生母〉関係個所)】
常憲公御母堂
〇桂昌院殿之伝系
二条関白光平公家司本庄氏は、北小路家の末葉、京都賀茂の神職より出たり、然るに本庄太郎兵衛宗利代に至て、始て本庄氏と改む、前妻は二条家の女にて、女子二人男子一人出生す、(略)後妻は妾女にして、京都堀川通西藪屋町八百屋仁左衛門とて、太郎兵衛方へ出入りの者の妻、仁左衛門死後嬬婦と成、女子二人召連れて、本庄太郎兵衛方江賄奉公に来りしに手を付て、男子一人を出生す。則本庄因幡守宗資是なり、召連れ来る女子一人は、大宮大蔵大輔妻(割註:瑞光院と称す)也、同一人は常憲公の御母堂桂昌院殿一品大夫人是なり。(略)
【史料九 『柳営婦女伝系』(浄円院〈吉宗生母〉関係個所)】
当将軍家御母堂
〇浄円院殿之系
巨勢氏(割註:和州中井氏之別称)
(略)
某 巨勢
元来紀州巨勢村の百姓の由、力量ある人にて八百目の鍬にて一日に七畝の田を耕せしとなり
女
中井大和従弟と申立、紀州光貞卿に奉仕し御三男主税頭頼方君を産す、後年御世継に立せ給ひ、御諱吉宗公と称し奉る。(略)
某 始名十左衛門 巨勢丹波守 従五位下
往昔は卑賤にして下京の湯屋たり、浄円院君、江戸下向の時随従、勤仕幕府、拝領五千石、御側衆の上座なり、病死
(略)
【史料一〇 『甲陽軍鑑』】
品第五十五
春日惣二郎爰に記、武田方には、国々大小社に大形如レ此の殃有、敵方家康には、蓑笠之助と云扶持人の猿楽、夢想に、
するがなるふじの御山でかひくふて
是を家康公、熨斗付の刀脇差大小買取て、ひらかるれば、此年男子を儲給(割註:私に曰此男子は台徳院殿秀忠公の御事なり)勝頼公に凶事あれば、敵にはか様の吉事有て、危国の躰なり。
【史料一一 『古事類苑 姓名部』より】
〔続武家閑談十九〕本朝姓氏弁(※木村高敦〈一六八一~一七四二〉著)
近世系図者ト云者アリテ、多ク諸家ノ系図ヲ妄作シテ、真ヲ乱ルモノアリ。(中略)其余ノ諸家ノ系伝記録ニ至テ、偽妄ノ説ヲナシテ人ヲ欺ク者多シ、実ニ天下ノ大賊也、今世ノ人、正史実録ノ正趣ヲ不レ知、其妄説ヲ信ズルモノ、不明ノ至也、井沢長秀ガ曰、近世ノ系図ハ、子ヨリ親ヲ生ズルトイヘルゾ格言ナルベシ(後略)
〔市中取締集 九ノ九十 書物錦絵〕〇文政五年(※一八二二)五月十四日伊勢守殿御直御渡〇中略
一此度、先祖書調ニ付、追々被二仰出一候通、万石以上以下、御目見以上之面々、先祖書取調罷在候処、焼失又は書継モ不レ致、等閑内捨置、書留も無レ之、不二相分一、当惑致候者モ有レ之候由、然る処、牛込払方町ニ罷在候浪人田畑喜右衛門ト申もの、諸家系譜之儀、委敷鍛錬致し、右喜右衛門へ、追々手寄候而、家譜穿鑿為二取調一、喜右衛門儀ハ、都而書上之認振迄も心得罷在、右故、万石以上以下共、家譜取調申付候者不レ少、仲ニハ清書ヲモ申付候者モ有レ之由ニ而、弟子共四五人モ有レ之、取調出来之上ハ、過分之価ヲ貪、其外筆耕料頼ミ、身分ニ寄、格外之直段ニ而、夫々取調遣候由之事。
※『古事類苑』は明治十二年(一八七九)編纂開始、大正三年(一九一四)完成。
※『寛政重修諸家譜』は寛政十一年(一七九九)編纂開始、文化九年(一八一二)完成。
【史料一二 『駿河記』】
〇瞽女松宅地 松は慶長四年関原御陣之時、神祖瞽女三人を夢見給ふ。其翌日瞽女三人御前に参りしが、名を問賜ふに松と申す。其夢に見給ふ処の名なり。命じて唄はしめ玉ひしかば、御合戦の御勝利なるべき由を祝ひ唄ひしにより、御勝利の後に松に宅地を賜。今其歌曲を伝ふ。今に瞽女此処に住す。松女は宝台院殿にゆかりある者にて、神祖の御前へ近く参りけると。其由縁を以て、正月七月は宝台院にて府の瞽女に斎を賜ふと云云。
※『駿河記』は、島田の桑原藤泰が文政三年(一八二〇)に完成させた地誌。
※瞽女は、語りや歌を伝承する盲目の女性。瞽女仲間は各地の特定の寺院と強く結ばれていた。甲府:誓願寺、美濃国御嵩町:願興寺、沼津:真楽寺、駿府:宝台院、越後国高田:天林寺(ジェラルド・グローマ―著「瞽女うた」〈岩波新書、二〇一四年〉)。
【史料一三 『駿国雑志』】
(前略)里人云。宝台院殿、常に御眼を患給ふ、故に瞽を憐み、恵せらるゝ事厚かりしとぞ。今に宝台院に於て、年々国中の瞽を集め、非時飯を給ふも、御遺詞に依て也。云々。之を以て考る時は、倉見媛は、昧身姫にして、御眼のうときをさして、東照宮の御戯にしか召れしを、寺記には正し気に載たるには非ず哉。
※『駿国雑志』は、駿府勤番を勤めた旗本阿部正信が天保十四年(一八四三)に著した駿河の地誌。
西郷の局・史談【第三弾】
◎西郷局研究の意味
徳川二代将軍秀忠の生母である西郷局は、「家康最愛の側室」(安藤優一郎『歴史を動かした徳川十五代の妻たち』〈青春文庫、2011年〉、笠谷和比古『徳川家康』〈ミネルヴァ書房、2016年〉)とされ、家康の「糟糠の妻」(『静岡市史 近世』〈静岡市役所、1979年〉)ともいわれています。また、山岡荘八の小説『徳川家康』(講談社、1962年)では美しく聡明で謙虚な女性として描かれています。
にもかかわらず西郷局は、家康や秀忠の伝記、徳川歴代将軍の妻妾をまとめた書籍、西郷局ゆかりの土地(掛川市、浜松市、静岡市)の自治体史などでわずかに触れられているにすぎません。
源頼朝の正室で後に尼将軍と呼ばれた北条政子、豊臣秀吉の側室で豊臣家の行方を左右したとされる淀殿らは政治的な影響力を持っていたため、本格的な研究の対象にもなっています。しかし、西郷局の場合は内助の功があったとしても表に出ることはなく、したがって史料もほとんどありませんから、本格的な著述、論考の対象になってこなかったのは仕方がないといえるでしょう。
ただ、掛川市上西郷の構江公民館一帯は「西郷局生誕の地」と伝えられていて、この地域の歴史を知る上で西郷局は避けて通れない存在です。また、西郷局について調べることで、戦国史や近世史への理解を深めることができるかもしれません。
個人的なことになりますが、筆者は上西郷の滝の谷地区出身で、大阪大学文学部史学科で日本史を学びました。2011年春に勤務先の時事通信社(記者として地方行政、文化財等を取材)を早期退職して静岡県に戻り、静岡産業大学情報学部非常勤講師(※情報学部は既に廃止)などをしながら研究対象を探していました。その頃、家康没後400年に向けて県内外でさまざまな事業が計画されていたのですが、友人の故大角明良君(構江地区、大角昌巳さんの弟)が小学生時代に「家のすぐ隣で徳川秀忠のお母さん(西郷局)が生まれたんだぞ」と自慢していたのを思い出し、「西郷局について調べてみよう」と思い立ちました。
調べを進めていくうちに出会ったのが『お国文書』で、その記述から西郷局の父戸塚五郎大夫が戦死したという通説は誤りだということが判明しました。さらに、西郷局について記した文献を年代順に並べてみると、五郎大夫の戦死後に蓑笠之助の養女となり三河の西郷義勝に嫁ぎ、義勝の戦死後は西郷清員の養女となったという通説は、18世紀末から19世紀初頭頃に成立したということもわかりました。
この結果をまとめたのが「西郷局の出自と構江屋敷に関する一考察」(『静岡産業大学情報学部研究紀要』第18号)です。また、『お国文書』は信用できることを論証したのが「西郷局の従姉妹お国一家の没落」(同第19号)です(いずれもインターネットで閲覧できます)。
西郷史談会の故田中諭先生(構江地区)に論文のもととなるアイデアをお話ししたところ、最初は半信半疑のようでしたがすぐに理解していただき、論文発表を決意することができました。通説を否定するのは勇気がいるのですが、田中先生には背中を押していただいたのです。
今回、掛川市二の丸美術館の展示『徳川家康と掛川三城ゆかりの武将物語』の一角に西郷局のコーナーが設けられ、その解説文等を書かせていただいたのは、自説を改めて紹介する良い機会になったと、同美術館にも感謝しています。
このブログでは次回以降、西郷局に関係する史料を逐次紹介していきたいと思います。ぜひとも読者自ら検証し、それによって西郷局や上西郷地区の歴史、さらには近世史についての研究を深めるのに役立てていただきたいと思います。
なお、掛川市指定文化財「松ヶ岡(旧山崎家住宅)」の勉強会(以善会)にも参加していて、市の『松ヶ岡(旧山崎家住宅)公式Web』に「以善会レポート」として松ヶ岡や掛川の歴史についての研究レポートを随時掲載していますので、そちらもご一読いただければ幸いです。
中山正清
西郷の局・史談【第四弾】
斎宮(いつきさま)の正体を探る
はじめに
掛川市上西郷の構江地区では、西郷局(於愛の方)の生誕地と伝えられる地(構江公民館敷地内)に祀られている小祠を「いつきさま」と呼び、地元の人たちが「斎菩薩和讃(いつきぼさつわさん)」を唱和しています。
この「いつきさま」は、『掛川誌稿』では「西郷斎宮神」と記されています。「斎宮(さいぐう、さいくう)」は「いつきのみや」とも読みますから、小祠が「いつきさま」と呼ばれるようになったのです。なお、「いつき」には「①潔斎して神に仕えること②神を祭る所」などの意味があります(『旺文社古語辞典』〈旺文社、1965年〉)。
では、なぜ西郷斎宮神がこの地に祀られるようになったのでしょうか。以下、考察していきたいと思います。
1、「斎宮」とは
「斎宮」は、律令制下において天皇の代替わりごとに選ばれて伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女「斎王(さいおう、いつきのひめみこ)」のことで、斎王に関することを担当する役所を「斎宮寮(さいぐうりょう、いつきのみやのつかさ)」といいました(『新版角川日本史辞典』〈角川出版社、1996年〉)。斎宮寮のトップ「斎宮頭(さいぐうのかみ)」は従五位下に当たります。
斎宮の制度は南北朝時代(14世紀)に廃絶したのですが、江戸時代になっても「斎宮」を名乗る武士がいました。これは「斎宮頭」の略称です。
例えば『忠臣蔵』で有名な赤穂藩家老・大石内蔵助良雄の「内蔵助」は、律令制下では中務省内蔵寮のナンバー2(従六位上)ですが、江戸時代には「内蔵寮」の実体がなくなっているにもかかわらず「内蔵助」が名乗られています。「斎宮」もこれと同様の名乗りです。この場合の読みは「さいぐう」または「いつき」でした。
2、西郷斎宮神
では、掛川市上西郷の構江公民館の敷地内に祀られている「西郷斎宮神」とは何でしょうか。文化2年(1805)頃に編纂が始まったとされる『掛川誌稿』(『掛川誌稿 全翻刻』〈翻刻・発行中村育男、1997年〉)の斎田茂先編纂個所の「曹渓山法泉寺」項には、「此ニ木碑ハ、即西郷斎宮ト云シ人ノ夫婦ニテ、西郷局ノ双親ナルニヨリ」つまり法泉寺(掛川市上西郷滝の谷地区)にある木碑は西郷斎宮夫妻のもので、西郷局の両親だと記されています。
また、「西郷斎宮故宅」項では「鎮守ノ小祠アリ、西郷斎宮神ト称ス」つまり構江地区に西郷斎宮神と称する小祠があると記しています。斎田茂先は、西郷斎宮は西郷局の親で、構江の西郷斎宮神は西郷斎宮の旧居に祀られている鎮守神だとしているのです。
「西郷斎宮故宅」の割註には「唯俚俗ノ伝説ヲ記ス」とありますから、『掛川誌稿』の編纂が始まった19世紀初め頃、地元ではこのように伝えられていたことになります。「鎮守神」は「近世に至ると、氏神・地主神などの村落の神々を鎮守とよぶようになった」(前掲『新版角川日本史辞典』)といいますが、構江地区のすぐ北にこの地域の鎮守である五社神社がありますから、西郷斎宮神は西郷局の親の屋敷の神として祀られていたといっていいでしょう。
3、「西郷斎宮」を名乗った旗本
西郷斎宮といえば、三河西郷氏の子孫で五千石の旗本だった西郷員総(かずふさ)も「斎宮」を名乗っています。このもう一人の西郷斎宮についてはどのように考えたらいいのでしょうか。
『寛政重修諸家譜』(『寛政重修諸家譜 第六』〈続群書類従完成会、1964年〉)によれば、西郷員総は一千石の旗本前田長泰の二男で西郷家の養子となり、宝暦4年(1754)に西郷家を継ぎ小性(小姓)組、御書院番、大番の各番頭(ばんがしら)という武官の要職を歴任、天明6年(1786)4月には将軍徳川家治の御側役になっています。同年9月に家治は死去していますから、幕政を動かすまでにはいたらなかったものの、有力な旗本だったことは間違いありません。
員総は明和3年(1766)に従五位下出羽守に叙任されていますから、それ以前に「斎宮」を名乗っていたと考えられます。なお、員総の養子で員総に先立って死去した員相(かずすけ)、員相の息子で員総の後を継いだ員豊(かずとよ)も「斎宮」を名乗っています。
肥前平戸藩主松浦静山の随筆『甲子夜話』(『甲子夜話1』〈平凡社、1977年〉)には、員総が厳格な人物だったことが記されていますから、紹介しておきます。
それによると、番頭を務めた北条安房守や西郷筑前守(員総のこと。員総は出羽守のあと筑前守を名乗った)は「手強(てごわ)なるやかましき男」で、同僚が集まった時に袴を脱ぐことはなく、遊興のようなことはまったくなかったといいます。
(規律が緩んでいた当時にあって)画工を呼んで絵を描かせるようなことがあれば「珍しく遊んでいる」といわれるほどでした。これは、安房守と筑前守がともに「番士(武官)の手本となるべき立場だから」と自らを律していたためだろうと、『甲子夜話』は記しています。
4、西郷斎宮員総までの西郷氏
拙稿「西郷局の出自と構江屋敷に関する一考察」(『静岡産業大学情報学部研究紀要18』〈2016年〉所収)や掛川市二の丸美術館展覧会『徳川家康と掛川三城ゆかりの武将物語』(2023年)への解説文で明らかにしたように、西郷局の父が上西郷村の戸塚五郎大夫だったことは確かですが、西郷局が服部(蓑)氏や三河西郷氏の養女になったという通説(『寛政重修諸家譜』『以貴小伝』)は誤りです。通説の萌芽は享保期頃(18世紀前半)成立の『柳営婦女伝系』にあり、寛政11年(1799)に編纂が始まった『寛政重修諸家譜』で通説がほぼ完成したのです。
西郷斎宮員総は、ちょうどこの間の18世紀中頃に活躍したことになります。員総が自ら跡を継いだ三河西郷氏と西郷局を強く結び付けたと推測することも可能です。以下、具体的にみていきましょう。
『寛政重修諸家譜』によれば、三河国八名郡(現豊橋市)の豪族だった西郷正勝(まさかつ、弾正左衛門)は、桶狭間の戦い翌年の永禄4年(1561)に徳川家康に従い、その子清員(きよかず、左衛門尉)、孫家員(いえかず、弾正左衛門)らが活躍し、家員の子正員(まさかず、若狭守)のときの元和6年(1620)には安房国で1万石を領す大名となりました。
しかし、寿員(ひさかず、越中守・市正)のとき将軍綱吉の不興を買い元禄11年(1698)に領地を半減され五千石の旗本となったのです。
寿員の後を継いだ忠英(ただふさ、左衛門)は妻が公家の坊城大納言俊清の娘、忠英の養子の員総は実父前田長泰が公家の高辻式部大輔長量の二男と、員総の頃の西郷家は武家以上に家格を重視する公家出身者に囲まれていました。
5、『柳営婦女伝系』と『将軍御外戚伝』
『柳営婦女伝系』(『柳営婦女伝叢 全』〈国書刊行会、1917年〉所収)掲載の系図には「参州西郡の西郷左衛門尉清貞養女として、岡崎城へ奉仕して、号二西郷局一」とあります。管見では、西郷局と三河西郷氏を結び付けた最も古い記述です。
ただし、西郷清貞という人物は三河西郷氏の系図には登場しません。清貞が清員の誤記としても、前述のように三河西郷氏は八名郡の豪族で、西郡は現在の蒲郡市です。家康の側室で督姫(池田輝政室)の生母西郡方(にしごおりのかた)と混同があったと考えられ、この記述は信用できません。
『柳営婦女伝系』には、同書とほぼ同様の内容を記していて題名が異なるもの(『玉輿記』『将軍御外戚伝』など)がありますが、このうち『国立公文書館デジタルアーカイブ』で公開されている『将軍御外戚伝』には、次のような記述があります(読点は筆者)。
一説ニ西郷弾正左衛門女也。有故義絶セシヲ石原百々兵衛親分ニナリ大神君ヘ御奉公ニ出ストモ云。近頃西郷市正ハ御尋有シ処ニ弾正左衛門女子ノ沙汰無之旨申上ラレシ由。
つまり、一説に西郷局は西郷弾正左衛門の娘だったのが、何らかの理由で義絶されて石原百々兵衛の娘として家康に仕えたともいうのですが、最近、西郷市正(いちのかみ)がこのことについて尋ねられると「西郷局が弾正左衛門の娘という記録や言い伝えはない」と答えた、というのです。この弾正左衛門は西郷正勝を指すと考えられます。
西郷氏で市正を名乗ったのは、綱吉の不興を買って五千石を削られた寿員だけですから西郷市正は寿員であり、寿員は寛保元年(1741)に死去していますから、このやりとりは同年以前のことになります。
寿員の晩年の時期、家康の伝記『武徳編年集成』が編纂されていて寛保元年に将軍吉宗に献上されていますから、寿員に西郷氏と西郷局との関係を尋ねたのは『武徳編年集成』の編者木村高敦だったのかもしれません。
さて、この『将軍御外戚伝』の記述からは、西郷寿員は否定しているものの、西郷局が三河西郷氏の出身という説が同書成立時(享保頃)にはあったことがわかります。
6、西郷局の父は「西郷斎宮」?
西郷寿員は否定したのに、なぜ三河西郷氏は西郷局との関係を肯定するようになったのでしょうか。西郷氏の歴代当主をみると、寿員以降は歴代が他家から養子に入って跡を継いでいます。寿員は肥前大村家、次の忠英は下野大田原家、次の員総は前述のように公家出身の前田家からの養子です。
寿員の頃までは「弾正左衛門女子ノ沙汰無之」と明言できたとしても、養子が続いたことでこのような家伝もあいまいになっていったのではないでしょうか。それに加えて、前述のように家格がなにより大切という公家の気風が入ってくれば、2代将軍秀忠の生母西郷局は西郷氏の出身だという説を積極的に採用する気になっても不思議ではありません。
そして、西郷局が西郷氏出身だということを西郷氏で初めて主張するようになったのが、斎宮を名乗った員総だったと考えます。西郷局の出身地の上西郷村でもこれを受け入れて、前述の『掛川誌稿』のような記述になったのだと推測します。
上西郷村の視点から具体的にみていきましょう。18世紀の上西郷村では、西郷局が同村の戸塚五郎大夫の娘だったことはほとんど忘れられていたようです。これは内山真龍の『遠江国風土記伝』(寛政11年〈1799〉完成)などが西郷局の出自に触れていないことから推測できます。
わずかに「(上西郷村の)美人ケ谷という地名は、西郷局の出身地ということに由来する」という程度の言い伝えがありました。『掛川誌稿』の「鬢セカ谷」項に「昔於愛ノ方(割註:後称西郷局)ノ出処ナレハ名ツクト云ハ、土俗ノ付会ナリ」とあることから、逆に地元ではこのように伝えられていたことがわかります。
そんな中で、大身の旗本である西郷斎宮が「西郷局は西郷氏の出身」と主張しているという情報が伝わると、上西郷村やその周辺の識者(掛川藩士、僧侶、神官、豪農など)は「西郷局の父は西郷斎宮である」と誤解し、それが定着して『掛川誌稿』編纂のための調査にもそのように答え、前述のような『掛川誌稿』の記述になったのでしょう。
そして西郷局の父戸塚五郎大夫が管理していた屋敷(現在の構江公民館一帯、前掲「西郷局の出自と構江屋敷に関する一考察」参照)も、西郷局の父西郷斎宮の屋敷ということで、そこに祀られていた屋敷神を「西郷斎宮神」と呼ぶようになったのだと考えられます。
7、通説の成立と上西郷村
しかし、『寛政重修諸家譜』の編纂が始まると、西郷局の父は正体不明の西郷斎宮ということでは、同書の編纂官を納得させることはできません。
一方、西郷家には戦国期以前にさかのぼる信頼できる記録がなかったことは、『寛政重修諸家譜』「西郷」項の冒頭に「官庫の記録をもつて参考するに、時代応ぜずして信じがたき事多し」などと記されていることから明らかです。
戸塚五郎大夫の子孫である旗本の戸塚氏も、『寛政重修諸家譜』「戸塚」(『新訂寛政重修諸家譜 第十八』〈続群書類従完成会、1965年〉)の忠春(五郎大夫)について「今西郷系図等に左証あるをもつてこれを補ふ」と、西郷氏系図に拠って記しているのをみれば、戸塚家にも西郷局の時代の信ずべき記録がなかったことがわかります。
そんな中で活躍したのがいわゆる「系図作り」だったと考えられます。『古事類苑47姓名部』(吉川弘文館、1967年)所収「市中取締類集 九ノ九十書物錦絵」の「文政五年五月十四日伊勢守殿御直御渡」には、幕府が大名・旗本の先祖書を調べるに当たり、先祖書を焼失したり書き継がないまま放っておいたりしたため困ってしまった大名・旗本がいて、諸家の系譜に詳しい田畑喜右衛門という浪人に依頼して家譜をまとめてもらった者も少なからずいた旨が記されています。
西郷家が依頼したのが田畑喜右衛門かどうかはわかりませんが、喜右衛門のような「系図作り」に依頼して、『柳営婦女伝系』の記述にも合うように西郷家の系譜を作成してもらって提出したものが『寛政重修諸家譜』に掲載されたと考えていいでしょう。
『掛川誌稿』は、斎田茂先が編纂途中の文化13年(1815)に死去したため、茂先が編纂した個所はそのまま残し、編纂を受け継いだ山本忠英が「附録」の形で『以貴小伝』(『寛政重修諸家譜』とおおむね同内容)の記述を紹介しています。
しかし、『掛川誌稿』は昭和3年(1928)に活字化される(前掲『掛川誌稿 全翻刻』「諸写本の性格」)まではその内容が広く知られることはなかったこともあり、上西郷村やその周辺で通説は普及せず、西郷斎宮が西郷局の父という説が引き続き信じられたのだと考えることができます。
おわりに
上西郷村一帯は室町期(15世紀初頭)には山科(やましな)家領の西郷荘でしたが、平安時代(12世紀前半)には小高御厨(おだか・みくりや)の一部でした(『掛川市史 資料編古代中世』〈掛川市、2000年〉)。「御厨」とは伊勢神宮の荘園のことですから、「斎宮」はこれとゆかりの深い言葉です。
現在、上西郷周辺で小高御厨の痕跡と考えられるのは小高神社ぐらいしか見当たりませんが、江戸時代には地名、小祠などに伊勢神宮や御厨を想起させるものが残っていたのかもしれません。そして、それが地元の識者らに「西郷斎宮」を受け入れやすくしたのではないかとも想像しますが、考え過ぎでしょうか。
18世紀中頃に西郷斎宮員総が「西郷局は三河西郷氏出身」と主張し、それが上西郷村に伝わって『掛川誌稿』の斎田茂先の記述になり、さらに現在の「いつきさま」につながっているというのが本稿の趣旨です。
推測によるところが多いのですが、状況証拠には符合していてかなり蓋然性が高いと自負しています。御意見・御批判等いただいて、今後さらに考察を深めることができれば幸いです。
西郷の局・史談【第五弾】
西郷局関係史料の紹介(1)
唯一の同時代史料『家忠日記』
今回から、西郷局に関係する史料を順次紹介していきます。枠で囲った個所が史料の原文で、次に史料の性格、現代語訳、考察という順番で記します。
『家忠日記』(天正十七年五月)
廿一日、丁卯、会下僧衆時にて御こし候、会下へ参候 駿川若君様御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候、野田菅沼助兵衛へ喧嘩にて死去之由申来候、「((頭)幡豆(書、)龍蔵(便宜)院小(移す))笠原彦左衛門所より山もゝこし候、」
廿二日、戊辰、西郷(竹谷)殿御(與次郎)と(同心)ふ(候)らいにあら(見付)い迄こし候、
廿三日、己巳、駿府参着候(藤枝にて)、(初)落付(ふり候)十三郎所ニふる舞候、
廿四日、庚午、りうせんしにて御ちうゐん之御とふらい申候、貮百疋、夕めし本田藤五所へこし候、
『続史料大成 家忠日記二』(臨川書店、1966年)
【現代語訳】
天正17年(1589)5月
21日 会下僧(えかそう:修行僧)達が時(とき:午前中にとる食事)のため(深溝にいる家忠のところへ)来て、家忠も一緒に食事した。駿川(駿河)若君様(長丸、後の秀忠)の母の西郷殿が、一昨日の19日に死去されたという知らせが届いた。野田菅沼助兵衛が喧嘩して死去したという知らせも届いた。幡豆の龍蔵院小笠原彦左衛門のところから、ヤマモモが贈られてきた。
22日 西郷殿の弔問で(駿府に向かう途中の)新居まで来た。
23日 駿府に到着し、十三郎のところに落ち着いて振る舞いを受けた。
24日 龍泉寺で御中陰の法要(四十九日法要のことだが、ここでは初七日の法要)に参列、香典は200疋。夕飯のため本田藤五のところに行った。
【家忠日記】
『新版角川日本史辞典』(角川書店、1996年)によると、徳川家康に仕えた松平家忠(弘治元年〈1555〉~慶長5年〈1600〉)の天正5年(1577)から文禄3年(1594)に至る日記で全7巻。家康をはじめとする諸大名の動静や生活を知る好史料といいます。
同辞典によれば、家忠は三河国深溝(ふこうず、愛知県幸田町)を本拠とし、長篠の戦い以降各地を歴戦し、天正18年(1590)の家康関東入部で武蔵国忍1万石、ついで下総国上代、小見川に移封。関ヶ原の前哨戦の伏見城攻防戦で討ち死にしました。
また、浜松城などの築城にも才能を発揮しました(『戦国人名事典コンパクト版』〈新人物往来社、1990年〉)。
【考察】
ア 徳川家中における西郷局の位置
では、『家忠日記』の記事からはどんなことを読み取ることができるでしょうか。5月22日条からは、西郷局が家康の家臣から「西郷殿」と呼ばれていたことがわかります。
また、5月21日時点では深溝(愛知県幸田町)にいた家忠のところにも、死去の情報が伝えられたことは、西郷局が「駿川若君」の生母として、徳川家中で大きな存在であったことをうかがわせます。これは同時に、長丸(秀忠)が家康の後継者として扱われていたことを意味します。
このとき天正7年(1579)5月7日生まれの長丸は11歳。長兄の信康は天正7年9月17日に自害させられています。次兄の秀康は西郷局の死去時に16歳でしたが、羽柴秀吉の養子となっていました。弟には、長丸と同じく西郷局を生母とする当時10歳の福松(後の忠吉)、下山殿を生母とする7歳の万千代(後の信吉)がいました。
小和田哲男『徳川秀忠』(PHP新書、1999年)は、天正11年(1583)正月元日に家康と長丸が並んで、浜松城で家臣達の挨拶を受けたという『徳川実紀』の記事を示し、「三男秀忠を跡つぎに考えていた徴証」としていますから、西郷局は死去する6年前から家康の跡継ぎの生母だったことになります。
西郷局死去時の家康の正室は、秀吉の妹の朝日姫(駿河御前)で、秀吉と家康が対陣した小牧・長久手の戦い後に秀吉が家康と提携するために無理やり押し付けたとされる婚姻でした。側室には振姫(当時9歳、後に蒲生秀行、秀行死去後は浅野長晟室)と信吉を産んだ下山殿がいました。しかし、家康が正室の築山殿と嫡男の信康を死に追いやる天正7年より前から家康の側にいて「駿川若君」の生母である西郷局が、駿府城内の女性の中では事実上筆頭の立場にいたと考えていいでしょう。
『家忠日記』の記事からは、家忠が西郷局死去の知らせを受けて、すぐに深溝を出発したこともわかります。『家忠日記』によれば、家忠はこの年、駿府城の普請に従事していたのですが、4月10日に普請が終わって深溝に帰っていました。4月29日には、石垣が崩れたので急いで駿府に来るように普請奉行から命じられたのですが、家忠は5月10日に人員だけを派遣して深溝にとどまっています。
そんな中で、西郷局の訃報が伝えられたのです。修行僧らと食事をとっていた家忠は急いで準備を整え、翌朝には深溝を発ち、新居(または見付)に泊まり、その翌日に駿府に到着。24日の法事に参列したのです。こうした家忠の迅速な行動をみると、家忠にとって西郷局の存在が大きなものだったことがうかがえます。
龍泉寺で行われた初七日の法事に、有力家臣の一人である家忠が深溝からわざわざ参列したことを考えれば、駿府にいた家康の家臣の多くが葬儀に出て、駿府から離れた場所にいた家臣も初七日の法事には参列したと推測することができまるでしょう。
香典の200疋は2貫。現在の価値に換算するのは難しいのですが、当時の1貫が10万円円程度とすれば、20万円程度だったことになります。
イ 上洛していた家康
西郷局が亡くなったとき、家康はどうしていたのでしょうか。同年2月28日に駿府を発って上洛していたのです。二木謙一『徳川家康』(ちくま新書、1998年)によると、この天正17年に家康は3月7日から6月4日までと、12月9日からの二度京に滞在してしていて、同書は「この年の上京は、当時秀吉が躍起になって進めていた小田原の北条氏対策の会合に出席するためであったが、そのころ妻の朝日姫が病気となり、京都で名医の診療を受けていたこととも関係があろう。政略による形だけの夫婦とはいえ、秀吉と家康との政争の犠牲とされた妻の心の痛みを思って見舞ったのである」と記しています。
朝日姫の見舞いについては同書の記す通りだったかどうかはわかりませんが、翌年に行われる小田原攻めに向け、秀吉と重要な話し合いをしていたことは確かでしょう。家康が西郷局の訃報を聞いてどんな反応を示したか、また、家康が駿府に帰ってどのような行動をとったかなどについては記録がありませんが、おそらくは駿府帰着後すぐに龍泉寺を訪れて冥福を祈ったことでしょう。
ウ 喧嘩に巻き込まれた?
西郷局の死因は不明です。『家忠日記』の「野田菅沼助兵衛へ喧嘩にて死去之由申来候」という記述を局の死と関係するとみて「何らかの事件に巻き込まれたらしい」という見解もあります(福田千鶴著『徳川秀忠』〈新人物往来社、2011年〉)が、それは当たらないでしょう。
野田菅沼助兵衛は、『寛政重修諸家譜』によると東三河の野田の豪族菅沼定村の弟定満の息子。野田菅沼家の当主として家康に従い長篠の戦い、甲州征伐、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに従軍した定盈の従兄弟に当たります。
『寛政重修諸家譜』には定盈の息子「某(助兵衛)」として「天正元年正月武田信玄野田城を攻るのとき、城外に出て鑓を合せ高名す。十二年四月小牧御陣のとき、定盈にかはりて長久手に先陣し、戦功あり。子孫家臣となる」と記されています。
家康の重臣間の争いならともかく、家康の陪臣に当たる助兵衛の喧嘩に「駿川若君」の母が巻き込まれたとしたら、よほどの不注意だったとしか考えられません。助兵衛の喧嘩の相手が誰だったかわかりませんが、徳川家跡継ぎの生母が殺されたとしたら、別の文献にも何らかの記載があってもおかしくないでしょう。
また、「野田菅沼助兵衛へ喧嘩にて死去」は「野田菅沼助兵衛に対して喧嘩をしかけて死去した」という意味にもとれますが、西郷局が歴戦の勇士に喧嘩を挑むというのもおかしな気がします。「助兵衛へ」の「へ」は誤記だと考えます。
したがってこの記事は、西郷局の死とは無関係で、たまたま同じ日に家忠のもとに情報が入ったのだと理解すべきでしょう。
(了)
中山正清
西郷の局・史談【第六弾】
西郷局の父の菩提寺、法泉寺
掛川市上西郷の滝の谷地区にある法泉寺には、「西月祐泉居士 玉窓妙全大姉」という戒名の位牌が現在も安置されていて、西郷局の両親のものとされています。
これについて『掛川誌稿』(斎田茂先編纂個所)は、次のように記しています。
慶長中伊奈備前守忠次ノ奉行ニテ与フル所ノ寺田十石(割註:略)、慶安二年ニハ、御朱印ヲ賜リシナリ。正徳四年総寧寺英峻和尚御朱印ヲ請ヒ奉ル状ニ曰、西月祐泉居士、玉窓妙全大姉之尊霊碑、安置此精舎、今有之処歴然也トアレハ、此ニ木碑ハ、即西郷斎宮ト云シ人ノ夫婦ニテ、西郷局ノ双親ナルニヨリ、慶安年ノ御朱印ヲモ賜リシ歟、寺僧等相伝ヘテ御朱印開基ト云フ。
これを意訳すれば以下のようになります。
慶長年中(1596~1615)に伊奈備前守忠次を奉行として(法泉寺に)寺田10石を与え、慶安2年(1649)には朱印を押した文書(朱印状)で寺領を確認された。正徳4年(1714)に総寧寺(千葉県市川市に所在)の英峻和尚が朱印状の発給を申請する書状に「西月祐泉居士、玉窓妙全大姉の位牌がこの寺院(法泉寺のこと)に安置され、今もある」と記されている。この位牌はつまり西郷斎宮という人の夫婦のものであり、西郷局の両親ということで慶安2年に朱印状を賜ったのであろうか。法泉寺の僧らは、この西月祐泉居士と玉窓妙全大姉を「御朱印開基」と伝えている。
つまり、法泉寺には西郷局の両親である西郷斎宮夫妻の位牌があるというのです。
一方、「西月祐泉居士 玉窓妙全大姉」の戒名を戸塚五郎大夫夫婦のものと伝える寺院もあります。西郷局の兄弟とされる心翁が開いた天龍寺(現東京都新宿区)です。
『寛政重修諸家譜』は心翁について次のように記しています。
はじめ遠江国瀧谷村法泉寺の住職たり。東照宮関東御入国のとき江戸にめされ、牛込にをいて方八町の地をたまひ、旧地天龍の河辺にあるをもつて天龍寺と号す。のちこの寺を四谷にうつさる。
意訳すれば次のようになります。
はじめ遠江国滝谷村の法泉寺の住職だったが、家康が江戸城主として関東に入国したとき(天正18年〈1590〉)に江戸に召され、牛込で8町四方の土地を賜り天龍寺を開いた。法泉寺が天龍川の河辺にあったことによってこの寺名をつけた。後にこの寺は四谷に移された。
法泉寺が天龍川の河辺にあったというのはなにかの間違いでしょうが、文政8年(1825)から同11年に幕府が寺社の由来などを報告させた『寺社書上』の天龍寺の項には、「中興開基 天文二十三年十一月八日寂 法名西月友舩禅定門 俗名戸塚五郎大夫忠春」とあります。
「西月祐泉」と「西月友舩」はともに「さいげつゆうせん」と読み、居士と禅定門の違いはありますが、同一人物の戒名と考えられます。とすれば、西郷斎宮と戸塚五郎大夫は同一人物なのでしょうか。
ここで注意しなければならないのは、『掛川誌稿』の編纂が始まったのは19世紀初め、『寺社書上』は前述のように文政期(19世紀前半)に記されたということです。いずれも西郷局(天正17年〈1589〉没)の時代から200年以上経っての記録ですから、必ずしもそのまま信じることはできません。そこで、西郷局に近い時代の史料をみてみましょう。
西郷局の従姉妹であるお国が記した『お国文書』は全部で4通ありますが、そのうち正保2年(1645)3月20日付の文書には「御先祖様御氏神五社大明神様並弓箭八幡様両宮ハ御阿いこ様之御氏神様ニ而御座候亦曹渓山法泉寺ハ御いはい所之寺ニ而御座候」(〈お国の〉先祖の氏神は五社大明神と弓箭八幡で御阿いこ様〈西郷局のこと〉の氏神でもあります。また、曹渓山法泉寺は〈先祖の〉位牌がある寺です)とあります。
お国文書のうち「先祖覚」によると、西郷局の父は戸塚五郎大夫で、五郎大夫の妹の娘がお国であり五郎大夫―妹―お国と構江屋敷を受け継いでいます。従って、お国にとっても西郷局にとっても先祖に当たる五郎大夫の位牌が法泉寺にあったということになります。
ということは、法泉寺の位牌にある「西月祐泉居士」は戸塚五郎大夫の戒名と断定することができるでしょう。西郷斎宮という人物は18世紀中頃の旗本に実在しますが、西郷局の頃の遠江やその周辺にその存在は確認できず、五郎大夫と同一人物とは考えられません。西郷斎宮については、改めて詳述します。
まとめれば、法泉寺は西郷局の父の菩提寺であり、また、西郷局の兄弟の心翁が住職を務めていたとされていて、西郷局とはゆかりの深い寺院なのです。
(2023年6月12日、中山正清)
西郷の局・史談【第七弾】
西郷局関係の史料紹介(2)
構江にあった観音寺の古文書
掛川市上西郷の構江地区にあった観音寺が所蔵していた『観音寺文書』の慶安4年6月3日付の「観音寺朱印下附願書」(『静岡県史料 第四輯』〈1938年、静岡県〉所収)には、西郷局の父親である富塚五郎太夫の位牌と石塔があると記されています。
まず、願書の全文を以下に示します。
遠江国佐野郡上西江村碧嶽山観音寺
一一山国師開基之地年代深遠歟。従二中比一曹洞宗宗通幻派下盛庵和尚中興ニ而百五拾余年罷成候事。
一観音者行基之作。遠江三拾三番之札所ニ而、従二諸国一札を納者数多御座候。依レ之昔者大分ニ観音領付来候ヘ共、信玄発向之砌、度々軍場ニ罷成、古證文共焼失仕、只今四石御座候事。
一西江殿御先祖之菩提所ニ而、台徳院様御袋様御親父富塚五郎太夫殿御位牌石塔于レ今在レ之。并石谷十蔵殿先祖之菩提所、依レ之十蔵殿添状被レ下候。
一寺内拾町余此内山林竹木莫大ニ御座候事。
観音堂六間四面、寺作六間九間、庫裏五間七間惣門有之事。
右之通少も偽無二御座一候。若偽御座候者曲事可レ被二仰付一候。何様ニも今度御朱印頂戴仕候様奉レ仰候。
以上
慶安貮年 観音寺
丑六月三日 順太□(黒印)
寺社奉行所
由緒をアピール
掛川藩の寺社奉行から寺領(4石)確認の朱印状をもらうため、観音寺がいかに由緒ある寺院かをアピールしています。
第一条では、鎌倉時代に宋から渡来して執権北条貞時や後宇多天皇が帰依した一山一寧が開基であると記しています。第二条では、同寺の観音像は奈良時代の高僧行基の作で、遠江三十三番札所の一寺として栄えたが、武田信玄が遠江に侵攻したときに何度も戦場となり、古い證文は焼失してしまったとしています。
第三条は、西郷殿(西郷局)の先祖の菩提寺であり、徳川秀忠(台徳院様)の母親(つまり西郷局)の父富塚五郎太夫の位牌と石塔が今もあり、また、江戸町奉行などを務めた石谷十蔵貞清の先祖の菩提寺でもあり十蔵から添状をいただいたと記しています。
一山一寧が開基で観音像が行基作というのは疑う必要があるでしょう。しかし、武田信玄の侵攻で同寺周辺が戦場となったというのは、十分に可能性があります。元亀3年(1572)に徳川家康が信玄に惨敗した三方ヶ原の戦いの前哨戦が上西郷村付近であった可能性は否定できません。また、信玄の子の勝頼が天正2年(1574)に高天神城を攻め落とす際、後方攪乱のために掛川城北方に軍勢を派遣したかもしれません。
第三条は、同寺が西郷局の先祖の菩提寺で父富塚五郎太夫の位牌と石塔が同寺にあり、また、石谷氏の先祖の菩提寺でもあるという内容です。「富塚」は「とづか」と読み「戸塚」のことです。西郷局の両親の位牌は滝の谷の法泉寺にもあります(『掛川誌稿』)が、観音寺は五郎太夫が屋敷守だった構江屋敷(現在の構江公民館一帯)のすぐ近くですから、その関係で観音寺も菩提寺としたのでしょう。五郎太夫が構江屋敷の屋敷守だったということは『お国文書』に記されていますが、『お国文書』については別稿で改めて紹介します。
石谷氏の居館から五郎太夫管理の屋敷へ
石谷氏についてみると、『故江府令朝散太夫衛校尉石谷叟行状』によれば、石谷氏はもともと西郷氏を名乗っていて今川義元の頃に「西郷十八士」の長でしたが、戸塚氏は十八士の一人にすぎませんでした。ところが西郷局が家康の側室となり「西郷」と呼ばれるようになると、西郷氏は「西郷」を名乗るのを憚って石谷氏と改めたのです。つまり今川時代には石谷氏が西郷一帯の武士を束ねていたということができます。西郷というのはおそらく上西郷だけでなく下西郷、南西郷などを含むでしょう。『故江府令朝散太夫衛校尉石谷叟行状』についても別稿で紹介します。
五郎太夫が屋敷守だった構江屋敷がはじめからそのように呼ばれていたとすれば、構江屋敷のあった公民館周辺はそれ以前から構江という地名だったことになります。「かまえ」というのは城郭や居館のあった場所によくある地名であり、とすれば構江屋敷以前から居館があった可能性が高くなります。
構江地区は上西郷村のほぼ中央にあり平地が広がっていますから、古くから上西郷村の中心だったと考えられます。家康から五郎太夫が構江屋敷の管理を任される前、この地にあった居館の主は「西郷十八士の長」の西郷氏(後の石谷氏)がふさわしいと考えます。
石谷氏が旗本として江戸に移った後も在地に残った分家が、観音寺の近くにあることも、構江地区に西郷氏の本拠だったことの傍証になるかもしれません。
以上をまとめれば、構江屋敷はもともと西郷(石谷)氏の居館でしたが、西郷局が徳川家康の側室となった後に西郷局に与えられ、その父の五郎太夫が管理するようになったということになります。
このように確言するにはもう少し史料が欲しいところですが、『故江府令朝散太夫衛校尉石谷叟行状』と『お国文書』の記述を見る限りでは、可能性は高いと考えます。
観音寺についてみれば、同寺が戸塚氏(西江殿御先祖)の菩提寺となったのが、五郎太夫が屋敷守となってからなのか、それともそれ以前からなのかは不明ですが、石谷を名乗る前の西郷氏の菩提寺だったことは確かでしょう。第三条で石谷十蔵が、この願書への添状を出していることから、それをうかがうことができます。
(了)
中山正清